(原文)
むかし、男ありけり。
人のむすめのかしづく、いかでこの男に物いはむと思ひけり。
うちいでむことかたくやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、
「かくこそ思ひしか」といひけるを、
親聞きつけて、泣く泣くつげたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。
時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。
蛍たかく飛びあがる。
この男、見ふせりて、
和歌(84)
ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ
和歌(85)
暮れがたき夏のひぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき
(現代訳)
昔、男がいた。
大事に育てられていたある娘が、なんとかしてこの男と親しく話したいと思っていた。
しかし、思いを口に出して言うことができなかったのであろうか、病気になって、死んでしまいそうになったときに、
「わたしは、あの人のことをこんなにも思っていましたが、もうだめです」と言ったのを女の親が聞きつけた。
女の親が、泣く泣くそのことをこの男に告げたところ、男はあわてふためいて、その娘の家に来たが、
娘は亡くなってしまったので、何をするでもなく、喪にこもっていたのであった。
時は、陰暦の六月の末。
たいそう暑い日頃に、宵は追悼のための管弦を奏し、夜がふけてくると、少しずつ涼しい風が吹いてきた。
蛍が高く飛び上がる。
この男は、横になったままその蛍を見て、以下のように詠んだ。
和歌(84)
空に飛び行く蛍よ、もし雲の上まで飛んで行くことができるなら、下界ではもう秋風が吹いているよと雁に告げておくれ。
和歌(85)
日が長くて暮れない暑さが残る夏の長い日中にぼんやりと思いにふけっていると、何ともいえずもの悲しい。