(原文)
むかし、年ごろ訪れざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人のことにつきて、
人の国なりける人につかはれて、もと見し人の前に出で来て、もの食はせなどしけり。
夜さり、「このありつる人たまへ」とあるじにいひければ、おこせたりけり。
男、「われをばしらずや」とて、
和歌(112)
いにしへのにほひはいづら桜花こけるからともなりにけるかな
といふを、いとはづかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」といへば、
「涙のこぼるるに目も見えず、ものもいはれず」といふ。
和歌(113)
これやこのわれにあふみをのがれつつ年月経れどまさりがほなき
といひて、衣ぬぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。
いづちいぬらむとも知らず。
(現代訳)
昔、男が何年もの間訪ねて行かなかった女がいたが、あまり賢い女ではなかったのであろうか、
あてにもならない人の話に乗せられて、地方に住む人に仕えていたが、以前夫であった男の前に出て来て、食事の給仕などをしていた。
夜になって男が「さきほどの女の人をこちらへ呼んできて欲しい」と主人に言ったので、主人は女を寄こしたのであった。
男は「わたしのことが分からないか」と言って、
和歌(112)
昔の美しさはどこへ行ってしまったのであろう。
桜の美しい花はすっかりこけ落ちてしまい、醜い幹だけになってしまったなあ。
と男が詠んだので、女はたいそう恥ずかしく思って、返事もせずに座っていたところ「どうして返事をしないのか」と言うと、
「涙が溢れ落ちるので、目も見えず、物を言うこともできないのです」と言う。
和歌(113)
これがまあ、わたしとの近江国での生活を逃れて、年月が経ったけれど、以前よりも良くなった様子も無い人であろうか。
と男が詠んで、男は着ていた衣を脱いで女に与えようとしたが、女は衣を捨てて逃げていった。
どこへ行ってしまったのかも、分からない。