伊勢物語-第六十二段 こけるから

 
伊勢物語







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フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」

(原文)

むかし、年ごろ訪れざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人のことにつきて、

人の国なりける人につかはれて、もと見し人の前にで来て、もの食はせなどしけり。

 

夜さり、「このありつる人たまへ」とあるじにいひければ、おこせたりけり。

 

男、「われをばしらずや」とて、

和歌(112)

いにしへのにほひはいづら桜花こけるからともなりにけるかな

 

といふを、いとはづかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」といへば、

「涙のこぼるるに目も見えず、ものもいはれず」といふ。

和歌(113)

これやこのわれにあふみをのがれつつ年月経れどまさりがほなき

 

といひて、衣ぬぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。

 

いづちいぬらむとも知らず。

 

(現代訳)

昔、男が何年もの間訪ねて行かなかった女がいたが、あまり賢い女ではなかったのであろうか、

あてにもならない人の話に乗せられて、地方に住む人に仕えていたが、以前夫であった男の前に出て来て、食事の給仕などをしていた。

 

夜になって男が「さきほどの女の人をこちらへ呼んできて欲しい」と主人に言ったので、主人は女を寄こしたのであった。

 

男は「わたしのことが分からないか」と言って、

和歌(112)

昔の美しさはどこへ行ってしまったのであろう。

桜の美しい花はすっかりこけ落ちてしまい、醜い幹だけになってしまったなあ。

 

と男が詠んだので、女はたいそう恥ずかしく思って、返事もせずに座っていたところ「どうして返事をしないのか」と言うと、

「涙が溢れ落ちるので、目も見えず、物を言うこともできないのです」と言う。

和歌(113)

これがまあ、わたしとの近江国での生活を逃れて、年月が経ったけれど、以前よりも良くなった様子も無い人であろうか。

 

と男が詠んで、男は着ていた衣を脱いで女に与えようとしたが、女は衣を捨てて逃げていった。

 

どこへ行ってしまったのかも、分からない。

  • 和歌(113)

「あふみ」は、「逢ふ身」と「近江」を掛けている。

 

構図は、第六十段(花橘)と同じ。

妻であった女が男のもとを去り、数年後、男が地方へ出張すると落ちぶれた元妻と再会する。

 

この段の方が、女は、第六十段(花橘)よりも低い身分に落ち、男の歌も辛辣なものになっている。

第六十段(花橘)では、古歌を引用したり、「橘の花の香り」を持ち出したりと、風流な一面もあったが、この段では、男の歌にそのような風流さはなく、直接的で残酷だ。

 

良かれと思って、着ていた衣を脱いで与えようとするが、これも女の自尊心をひどく傷つけてしまった。

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