神功皇后の新羅遠征
そこで神功皇后は、教えられたように、軍を整えると、船を並べて海を渡りました。
そのとき、海原の魚が大小かかわりなく、ことごとく皆神功皇后の船を背負いました。
その上、強い追い風が吹き、船は波が進むのにまかせてぐんぐんと進んで行きました。
ついに、船が立てる波が、新羅の国に押し上がり、その波は、勢いよく国の半分程に達しました。
これに新羅の国王は、畏まり、
「今後、天皇のお言葉に従い、馬飼いとして、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や舵を乾かすことなく、天地が続く限り、永遠にお仕え致します」
と申しました。
これによって、
新羅を馬飼いの国と定めました。
百済の国を海の御料地と定めました。
そして、神功皇后は、杖を新羅の国王の家の門に突きたてて、
住吉三神の荒御魂を国守神として祀り、国に帰りました。
神功皇后は、新羅征伐がまだ終わらないうちに、子を生みそうになりました。
そこで神功皇后は、腹を落ち着かせようと、石を腰に巻き付けました。
そして筑紫国にお戻りになると、御子(品陀和気命:のちの応神天皇)をお産みになりました。
その御子が生まれた土地を「宇美(福岡県宇美町)」といいます。
その腰に巻き付けた石は筑紫国の伊斗村(福岡県糸島市)にあります。