大山守命の反逆
川の中央に差し掛かると、舵取りに扮した宇遅能和紀郎子は、船を傾かせて、大山守命を水の中へ落としました。
大山守命は、浮かび上がると、川に流されて下って行きました。
そして、大山守命は、流れながら、次の歌を詠みました。
和歌(45)
ちはやぶる 宇治の渡に 棹執りに 速けむ人し 我がもこに来む
(宇治川の渡し場で、船の
棹を操るのが素早い人よ。わたしのところに来ておくれ)
そのとき、川辺のほとりに隠れていた兵が、あちこちから一斉に現れて、矢を放ちました。
大山守命は、
訶和羅之前にまで流れると沈んでいきました。
鉤でその沈んだ辺りを捜索すると、
大山守命が服の中に着込んでいた鎧に引っ掛かり、「
訶和羅」と鳴りました。
そこで、その土地を訶和羅之前と言います。
その大山守命の遺体を引き上げたとき、弟の宇遅能和紀郎子は、次の歌をお詠みになりました。
和歌(46)
ちはやひと 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 かなしけく ここに思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀
(宇治川のほとりに生える檀の木よ。
木を伐って弓にしようと思うけれど、その弓で射抜いてしまおうと思うけれど、
妹を思い出し、心を痛めて思い出し、悲しく思い出し、伐らずにおこう檀の木よ)
大山守命の遺体は、奈良山に葬られました。
大山守命は、
土形君、
幣岐君、
榛原君らの祖です。
大雀命と
宇遅能和紀郎子は、互いに皇位を譲り合ことになりました。
そんなとき、海人が大贄を献上したところ、兄はこれを辞退して弟に貢がせ、弟はこれを辞退して兄に貢がせました。
お互いが譲り合っているうちに、多くの日数が経ちました。
こういった譲り合いが一度や二度ではなく起こり、海人は、行き来に疲れてしまい、泣いてしまいました。
そのため、諺の「海人なれや、己が物によりて泣く」は、このようなことのためです。
宇遅能和紀郎子は、早くに
薨去され、
大雀命が天下を統治なさいました。