古事記を読む(216)下つ巻-第16代・仁徳天皇
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日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。
古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」
聖帝の御世
仁徳天皇の御世に
大后の
石之日売命の
御名代として
葛城部を定めました。
また太子の伊邪本和氣命の御名代として壬生部を定めました。
また水歯別命の御名代として蝮部を定めました。
また大日下王の御名代として大日下部を定めました。
若日下部王の
御名代として
若日下部を定めました。
また秦人を使役して茨田堤と茨田三宅を作りました。
また丸邇池と依網池を作りました。
また難波之堀江を堀って海に通しました。
また小椅江を堀りました。
また墨江之津を定めました。
あるとき、仁徳天皇は、高い山にお登りになり四方の国土をご覧になり、次のように仰せになりました。
「国中の家々の釜戸から煙が上がっていない。国内は皆、貧しいのであろう。これから3年の間、ことごとく人民の課役を免除しよう」
そのため、宮殿は、破れ壞れ、ことごとく雨漏りするようになりましたが、修理することなく、器で漏れる雨を受け、漏れないところに避難しました。
やがて、天皇が国中をご覧になると、国中の家々の釜戸から煙が満ちていました。人民が豊かになったとご判断して、ようやく課役を課しました。
こういうわけで、百姓は栄えて、役使に苦しまなくなりました。
そのため、仁徳天皇の御世を讃えて聖帝の世というのです。
御名代:天皇に奉仕する天皇直属の集団。
秦人:朝鮮半島南部から渡来した集団。
課役:課税と労役。
有名な「民の竈」の話です。
参考:「聖帝」と呼ばれた天皇
この「民の竈」が史実であるかどうかは、確かめようもなく、頑なにこんな話は史実ではないと説く人がいますが、少なくとも古事記と日本書紀には、このエピソードが記されているのは紛れもない事実であり、模範となる天皇の姿であるとされています。
むしろ、そっちの方が史実である・ないよりは、重要であると思っています。
史実であったなら、それは大変素晴らしいことですが、それだけなら、仁徳天皇のパーソナリティの絶賛で終わってしまいます。
逆に史実でないのに、あえて正史にこういったエピソードを記述したのであれば、日本という国が「このような統治」を理想としているということであり、のちの代々天皇は、「このような統治」を理想としたアイデンティティを継承していったわけです。
正史
国家によって公式に編纂された歴史書
つまり、個人のパーソナリティではなく、理想の国家のあり方というスケールの大きな話になるのだと思います。
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