伊勢物語-第百七段 身をしる雨

(原文)
むかし、あてなる男ありけり。
その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。
されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひしらず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、書かせてやりけり。
めでまどひにけり。さて男のよめる。
つれづれのながめにまさる涙河袖のみひちてあふよしもなし
返し、例の男、女にかはりて、
あさみこそ袖はひつらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ
といへりければ、男いといたうめでて、いままで、巻きて文箱に入れてありとなむいふなる。
男、文おこせたり。
得てのちのことなりけり。
「雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ」といへりければ、例の男、女にかはりてよみてやらす。
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨はふりぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠も取りあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。
(現代訳)
昔、高貴な男がいた。
その男のもとにいた侍女に、内記であった藤原敏行という人が交際を求めた。
しかし、女は若かったので、手紙を書くのも慣れておらず、言葉もあまり上手く使えなかった。
まして歌など詠まないので、女がいる家の主人であるその高貴な男が、案を書いて、女に書かせて、敏行のもとに送った。
敏行は、素晴らしいと感激し、敏行が詠んだ。
なすこともなく物思いにふけっていると、長雨による川よりも流れ落ちる涙の量が増し、袖が濡れるばかりで、貴女に逢う方法もありません。
返しは、例の男が女に代わって。
涙で袖が濡れてしまうのは、貴方の思いが浅いからでしょう。浅瀬だからこそ袖が濡れる程度なのでしょう。もっと涙が河のように溢れて、貴方の御身さえ流されたと聞いたならば、私は貴方の恋の情を頼みにいたしましょう。
と言ったところ、男はたいそう感嘆して、その手紙を今まで巻いて文箱に入れてあるということだ。
男が手紙を送ってきた。
これは、女を手に入れた後のことであった。
「雨が降りそうなので、貴女のもとへ出発しようか思い悩んでいます。私の身が幸いならば、この雨は降らないでしょう」と言ってきたので、例の女の主人である高貴な男が、女に代わって詠み送った。
私を思ってくださるのか、思ってくださらないのか、問うことができないので、涙を流しています。その涙が雨となってひどく降っていますが、この雨の中貴方が来てくださるなら、きっと私は幸せなのでしょう。
と詠み送ったところ、蓑も笠も身につけず、ずぶ濡れであわててやって来たのであった。
- 内記
詔勅・宣命をつくる役所
「高貴な男」は、業平なのでしょう。
業平のもとに居た侍女に、藤原敏行が恋をし、手紙を寄こした…
その返事を侍女に代わって恋の百戦錬磨の業平が考えたとゆう話。
どのような返事が来ると、男は嬉しいのか…それを知り尽くした業平の巧妙な手紙に藤原敏行は、
手紙を巻いて、文箱に大切に保管し、
あるときは、蓑も笠も身につけず、ずぶ濡れであわててやって来ます。
歌人としても、書家としても名を馳せる藤原敏行をいとも簡単に操る業平と、それに素直に反応する藤原敏行がおもしろい。