伊勢物語-二十四段 梓弓
(原文)
むかし、男、片田舎にすみけり。
男、宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるままに、三年来ざりければ、
待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、今宵あはむとちぎりたりけるに、この男来たりけり。
「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで歌をなむよみて出したりける。
あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ
といひいだしたりければ、
梓弓真弓槻弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ
といひて、いなむとしければ、女、
梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを
といひけれど、男かへりにけり。
女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、えおひつかで、清水のある所に伏しにけり。
そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。
あひ思はで離れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになりにけり。
(現代訳)
昔、ある男が都から離れた片田舎に住んでいた。
男は宮廷にお仕えをすると言って、女と別れを惜しんで出て行ったまま、三年もの間帰ってこないので、女は待ちあぐね、
たいそう心をこめて求婚してきた男に「今夜お会いしましょう」と約束をしていたところに、三年もの間帰ってこなかった男が帰ってきた。
男は、「この戸をお開けなさい」と言って戸を叩くが、女は戸を開けることなく、歌を詠みこの男に差し出した。
三年もの間待ちくたびれて、わたしは、まさに今夜、新しいあの人と初めて契りを交わすのです。
と詠んで差し出したところ、
いろいろなことがあったけれども、長年わたしがあなたを愛したように、あなたもその新しい夫を愛し、仲良くやりなさい。
と男が詠んで去ろうとしたので、女は、
あなたがわたしの心を引こうが引くまいが、わたしの心は、あなたに寄りそっていましたのに。
と詠んだけれども男は帰ってしまったのであった。
女はたいそう悲しくて、男の後を追って行ったが、追いつくことができず、きれいな清水がある所にうつ伏せに倒れ込んでしまった。
そして、そこにある岩に、指の血で歌を書きつけたのであった。
わたしが思うだけで、同じようにわたしのことを思ってはくれないその人を、どうしても引き止めることができずに、わたしの身は今にも消え果てしまうようです。
と書いて、そこで死んでしまったのであった。
- 和歌(53)
「梓弓真弓槻弓」は、それぞれ、梓、檀、槻で作った弓のこと。
前段の二十三段(筒井筒)とは違い、この段は、結局は悲劇で終わりを迎えます。
そして、特に悲しいことに、男も女も特別に悪行や裏切りを働いた訳ではないということ。
女は、女で三年もの間音信不通の夫に思いを寄せつつもあまりの長い時間に心が揺らぎ・・・このことは女を責めることはできません。
そして、男は男で、この女のことを完全に忘れいた訳ではなく、マメさは無かったけれども、女の「今夜、新しい人と契りを交わす」という告白に、
自分の非がもたらしたものだと、筋を通し、怒ることもなく物分かりよく、女に「幸せにやりなさい」と別れを告げる。
そして、この男の物分かりの良さが悲劇を生みました。