2019/07/12

伊勢物語-第四段 西の対

 
伊勢物語




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(原文)

むかし、ひんがしの五条に、大后おほきさいの宮おはしましける、西の対に住む人ありけり。それを本意ほいにはあらで、こころざし深かりける人、行きとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年のむ月に梅の花ざかりに、去年こぞを恋ひて行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年こぞに似るべくもあらず、うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせてりて、去年こぞを思ひいでてよめる。

和歌(5)

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。

 

(現代訳)
昔、東の京の五条通りに面したあたりに、大后おおきさいの宮がおいで遊ばしたやしきの西の対に住む女があった。

不本意にも望ましくないがその女に心惹かれて、どうすることもできず本気で恋していた男が、行き尋ねていたところ、正月の十日あたりにその女はよそに姿を移してしまった。

どこに移したのかは、聞いて分かったのだが、普通の身分の者が行くことができる場所ではなかったので、より一層、男はつらい気持ちのまま過ごしていたのだった。

 

翌年の正月の梅の花盛りの頃、男は、去年を恋しく思って西の対へと行き、立って見たり、座って見たりして、見るけれど、去年見た様子とは似ても似つかない。

 

男は、うち泣き、がらんとしたむき出しの板敷に、月が傾き夜が明けるまで伏して、去年のことを思い出して、次の歌を詠んだ。

和歌(5)

月は、違う月ではないのだろうか。春は、昔の春ではないのだろうか。わが身だけは元のままであるのに。

と詠んで、男は、夜がほのぼのと明けるころに、涙して帰って行った。

  • 東の京

平安京の朱雀大路すざくおおじを境にして、東の部分。

第二段 西の京に記しましたが、平安京の開発は東の部分から進みます。

当然、そこに住む人物は、身分の高い方々です。

 

  • 大后おおきさいの宮と西の対に住む女
大后おおきさいの宮は、仁明にんみょう天皇の后・藤原順子のぶこであり、「西の対に住む女」は、伊勢物語の女主人公・藤原高子たかいこ

そして、

「普通の身分の者が行くことができる場所ではない」などの記述から、天皇や東宮(皇太子)の后が住む後宮こうきゅうに入ってしまったことが読み取れます。

 

そして、業平なりひら自身は、そんな我が手中に収まる見込みのない女性に心惹かれてゆくことを望ましくない・・・しかし、どうしようもないと嘆いている・・・まして、天敵藤原氏の娘ですから。

 

  • 「月あら昔の 春なら わが身ひとつは もとの身にして 」

連続で重ねられている「や」を疑問ととるか反語ととるか。

個人的には、疑問の方がしっくり来るのでそういう解釈を記しているが、「古事記」に絶大なる影響を残した尊敬して止まない本居宣長は、反語と見ている・・・笑

どちらの解釈も可能。

 

疑問では、

「わが身」は、変わらないのに、

「月」、「春」、「高子たかいこ」全てが変わってしまったということになり、変わっていない「わが身」が浮き彫りになり、

 

反語の解釈なら、

「月は、違う月ではないのだろうか。いや同じ月だ。春は、昔の春ではないのだろうか。いや同じ春だ。わが身だけは元のままであるのに。」

この場合、「月」、「春」、「わが身」全てが変わっていないということになり、

(手の届かない存在になった)高子たかいこの境遇だけが変わってしまったことが浮き彫りになる。

 

手元にある「古今和歌集」新潮日本古典集成では、反語で意味が記されており、この歌(古今集747)は、名歌の一つ。

納得です。

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