(原文)
むかし、田邑の帝と申すみかどおはしましけり。
その時の女御、多賀幾子と申すみまそがりけり。
それうせたまひて、安祥寺にてみわざしけり。
人々ささげ物奉りけり。
奉り集めたる物千捧ばかりあり。
そこばくの捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立てたれば、山もさらに堂の前に動きいでたるやうになむ見えける。
それを、右大将にいまそがりける藤原の常行と申すいまそがりて、講の終るほどに、歌よむ人々を召し集めて、今日のみわざを題にて、春の心ばへある歌奉らせ給ふ。
右の馬の頭なりける翁、目はたがひながらよみける。
和歌(140)
山のみな移りて今日にあふことは春の別れをとふとなるべし
とよみたりけるを、いま見ればよくもあらざりけり。
そのかみはこれやまさりけむ、あはれがりけり。
(現代訳)
昔、田邑の帝とお呼びする帝(文徳天皇)がいらっしゃった。
その時の女御で多賀幾子と申し上げる方がいらっしゃった。
その女御がお亡くなりになって、安祥寺というお寺でご法要が行われた。
人々が捧げ物を奉った。
捧げられた物は、千本の木の枝につけるほどたくさんあった。
それほど多くの捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立てたので、まるで木が茂る山のようで、そんな山が堂の前で動き出すかのように見えた。
それを、右大将の藤原常行という方がいらして、経文の講話が終わる頃、歌よむ人々を召集して、今日の法要を題にして、春の情趣ある歌を作らせて奉らせた。
右馬の頭であった老人が、目が悪く、多くの捧げ物を本物の山と見間違えをして次のように詠んだ。
和歌(140)
山が全て移動して今日の法要に来たのは、春の別れを惜しむためということなのでしょう。
と詠んだのを、今見ればそう良い出来のものでもない。
当時はこれがよかったのであろうか、人々は感動したのであった。