伊勢物語-第七十七段 春の別れ

 
伊勢物語







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フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」

(原文)

むかし、田邑たむらの帝と申すみかどおはしましけり。

 

その時の女御にょうご多賀幾子たかきこと申すみまそがりけり。

 

それうせたまひて、安祥寺にてみわざしけり。

 

人々ささげ物奉りけり。

 

奉り集めたる物千捧ちささげばかりあり。

 

そこばくの捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立てたれば、山もさらに堂の前に動きいでたるやうになむ見えける。

 

それを、右大将にいまそがりける藤原の常行つねゆきと申すいまそがりて、講の終るほどに、歌よむ人々を召し集めて、今日のみわざを題にて、春の心ばへある歌奉らせ給ふ。

 

右の馬の頭なりける翁、目はたがひながらよみける。

和歌(140)

山のみな移りて今日にあふことは春の別れをとふとなるべし

 

とよみたりけるを、いま見ればよくもあらざりけり。

 

そのかみはこれやまさりけむ、あはれがりけり。

 

(現代訳)

昔、田邑たむらの帝とお呼びする帝(文徳もんとく天皇)がいらっしゃった。

 

その時の女御にょうご多賀幾子たかきこと申し上げる方がいらっしゃった。

 

その女御にょうごがお亡くなりになって、安祥寺というお寺でご法要が行われた。

 

人々が捧げ物を奉った。

 

捧げられた物は、千本の木の枝につけるほどたくさんあった。

 

それほど多くの捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立てたので、まるで木が茂る山のようで、そんな山が堂の前で動き出すかのように見えた。

 

それを、右大将の藤原常行ふじわらのつねゆきという方がいらして、経文の講話が終わる頃、歌よむ人々を召集して、今日の法要を題にして、春の情趣ある歌を作らせて奉らせた。

 

右馬の頭うまのかみであった老人が、目が悪く、多くの捧げ物を本物の山と見間違えをして次のように詠んだ。

和歌(140)

山が全て移動して今日の法要に来たのは、春の別れを惜しむためということなのでしょう。

 

と詠んだのを、今見ればそう良い出来のものでもない。

 

当時はこれがよかったのであろうか、人々は感動したのであった。

  • 田邑たむらの帝

第五十五代・文徳もんとく天皇。

京都府葛野郡の田邑たむら山陵に葬ったことからこう呼ばれる。

 

  • 右の馬の頭なりける翁

右馬寮の長官であった老人。業平のこと。

業平が右馬頭であったのは、四十代前半からであり、当時としては、老人という表現でもおかしくはない。

 

女御にょうご多賀幾子たかきこが亡くなって、その忌の法要で、業平は、春の別れを惜しみ、釈迦の入滅時に沙羅双樹さらそうじゅが合わさって、一樹となり山が崩れたという逸話を踏まえて和歌(140)を詠み上げた。

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