伊勢物語-第九十六段 天の逆手

(原文)
むかし、男ありけり。
女をとかくいふこと月日経にけり。
岩木にしあらねば、心苦しとや思ひけむ、やうやうあはれとも思ひけり。
そのころ、六月の望ばかりなりければ、女、身に瘡一つ二ついできにけり。
女いひおこせたる、「いまは何の心もなし。身にかさも一つ二ついでたり。時もいと暑し。少し秋風吹きたちなむ時、かならずあはむ」といへりけり。
秋待つころほひに、ここかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、口舌いできにけり。
さりければ、女のせうとにはかに迎へに来たり。
さればこの女、かへでの初紅葉を拾はせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。
秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ
と書きおきて、「かしこより人おこせば、これをやれ」とていぬ。
さてやがてのち、つひに今日まで知らず。
よくてやあらむ、あしくてやあらむ、いにし所もしらず。
かの男は、天の逆手を打ちてなむのろひ居るなる。
むくつけきこと、人ののろひごとは、おふものにやあらむ、おはぬ物にやあらむ。
「今こそは見め」とぞいふなる。
(現代訳)
昔、男がいた。
女をあれこれと口説いているうちに月日が経った。
女も岩や木ではないので、情がわき心苦しいとでも思ったのであろうか、次第に心を許していった。
そんな頃、六月の半ばで暑い盛りで、女は、体にはれものが一つ二つできてしまった。
女が男に返事をよこした。
「今はあなた以外に恋をする気持ちなどございません。しかし、体にはれものが一つ二つできています。また、時節も暑いです。少し秋の風が吹き始める頃、きっとお逢いしましょう」
と書かれていた。
やがて秋めいてきた頃、あちらこちらから、女がその男のもとへ行こうとしていると噂が立って、言い争いが起こった。
そのようなことで女の兄が急に女を引き取るために迎えに来た。
そこで女は、楓が早くに紅葉したものを侍女に拾わせて、歌を詠み、その楓の葉に書きしるし男に送った。
お互いに秋になったらお逢いしようと望みをかけていましたのに、その通りにはならず、結局、木の葉が降り積もって入江が浅くなるように、私たちの縁は浅いものであったのですね。
と書きおいて、「あちら(男)側から遣いの人が来ましたら、これをやってください」と言って、去ってしまった。
そしてそのまま後は、とうとう現在まで女の消息はわからない。
幸せになったのか、不幸になったのか。
どこへ去ってしまったかも分からない。
その男は、天の逆手を打って、女の不幸を願って呪いをかけているということである。
気味の悪いことである。
人の呪いの祈りごとは、その相手に降りかかるものか、降りかからぬものか。
男は、「今に思い知るであろう」と言っているということである。
- 天の逆手
詳細不明。手の甲同士で柏手を打つか、または後方の背中側で柏手を打った感じでしょうか…
本来の「順」の作法ではなく、「逆」の作法を行い、一種の呪いをかける行為。
古事記では、大国主の長子・事代主が、国譲りを決断した後に、この天の逆手を打って、不満の表れでしょうか…姿を隠すシーンがあります。
この段は、話としては、分かりやすく、女も結局は、一時の同情で心を許したものの、そこまで男を愛していなかったのでしょう。
恐らく身分の高いこの女は、親類たちの反対を押し切るだけの愛情は持っていなかったということでしょう。
そして、天の逆手を打って、女の不幸を願う男…
ちょっと他の伊勢物語に出てくる「男」たちとは、一線を画しています。