伊須気余理比売
7人の媛女が、高佐士野で遊んでおりました。
その7人の媛女の中に伊須気余理比売がいました。
大久米命は、
伊須気余理比売がいるのを見ると、次の歌をお詠みになり神武天皇に申し上げました。
和歌(16)
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れをしまかむ
(大和の高佐士野を行く、7人の乙女たちよ
誰を妻にしましょうか?)
伊須気余理比売は、
媛女たちの一番前に立っており、
神武天皇は、その媛女たちをご覧になり、伊須気余理比売が一番前に立っていることを知ると、次の歌をお詠みになりました。
和歌(17)
かつがつも いや前立てる 兄をしまかむ
(まぁあえて言うなら、一番前に立っている年上の乙女を抱いて寝よう。)
そして、大久米命が神武天皇の命のもと、そのお言葉を伊須気余理比売に伝えると、
伊須気余理比売は、
大久米命が目尻に入れ墨をして目が裂けているように見えたので、不思議に思い次の歌をお詠みになりました。
和歌(18)
あめ つつ ちどり ましとと など黥ける利目
(どうして目尻に入れ墨を入れて目を鋭くしているのですか?)
これに対して、
大久米命は、次の歌をお詠みになり答えました。
和歌(19)
媛女に 直に逢はむと 我がさける利目
(乙女であるあなたに会うのに入れ墨をして目を鋭く見開いているのです。)
これに対して、
伊須気余理比売は、「お仕えいたします」とお答えになりました。
伊須気余理比売の家は、
狭井河の上流にありました。
神武天皇は、伊須気余理比売のもとへお出かけになり、一夜をお過ごしになりました。
ところで、その河を狭井河というのは、その河に山百合がたくさん生えていることから、
山百合の名をとり、
狭井河と名付けたのです。
山百合の元の名は、「
佐韋」といいます。
のちに、伊須気余理比売が宮中に来られたとき、神武天皇は、次の歌をお詠みになりました。
和歌(20)
葦原の しけしき小屋に
菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し
(葦原の荒れた小屋に菅(植物)で作った畳を敷いて、わたしたちは2人で寝たことよ。)
こうしてお生まれになった御子の名が、
日子八井命、
次に、
神八井耳命、
次に、
神沼河耳命(第2代綏靖天皇)、
の三柱です。