古事記を読む(218)下つ巻-第16代・仁徳天皇

 







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フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」

石之日売命いわのひめのみこと

その後、大后おおきさきである石之日売命いわのひめのみことが、

豊楽とよのあかりを催そうとして、御綱柏みつながしわを採りに木国(紀伊国)にお出掛けになったとき、

仁徳にんとく天皇は、八田若郎女やたのわきいらつめと結婚いたしました。

 

大后おおきさき御綱柏みつながしわを御船にたくさん積んでお帰りになるとき、

水取司もいとりのつかさとして仕えていた吉備国の児島こじまの人夫が、難波之大渡なにわのおおわたりに遅れて着いた倉人女くらひとめの船と出くわし、

「天皇は、この頃、八田若郎女やたのわきいらつめと結婚して、昼夜遊んでいらっしゃる。大后おおきさきがこの事をお聞きになったら、大変なことになるので、靜かに遊んでいらっしゃる」

と語りました。

 

すると、その倉人女くらひとめは、このことを聞くとすぐに御船に追いつき、その人夫が言ったことを詳細に大后おおきさきに伝えました。

 

それを聞いた大后おおきさきは、大いに恨み、怒って、御船に載せていた御綱柏みつながしわをことごとく海に投げ捨てました。

 

そこでその土地を御津前みつのさき(大阪市中央区)と言うのです。

 

そして宮には入らず、御船で避けるようにして堀江を遡って川に沿って山代やましろ(京都府南部)の方に上り進みました。

 

このとき、大后おおきさきは、次の歌をお詠みになりました。

 

和歌(50)

つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の辺に 生ひ立てる さしぶを さしぶの木 其が下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも

(山代川を遡り、わたしが上って行くと川辺にさしぶの木が生えている。そのさしぶの木の下に生えている葉の広い真椿。その花のように照り輝き、その葉のようにゆったりと心を広げているのは大君のようです)

 

そして、山代から回って、那良ならの山の入り口(奈良山の麓)に着くと、次の歌をお詠みになりました。

和歌(51)

つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 那良ならを過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城 高宮 我家のあたり

(山代川を上って奈良を過ぎて、大和を過ぎて、わたしが見たいと思っていた国は葛城の高宮の我が家の辺りです)

 

大后おおきさきは、歌を詠み終わると、筒木(京都府京田辺市)に住む韓人からひと奴理能美ぬりのみの家に滞在しました。

豊楽とよのあかり宮中での酒宴。

御綱柏みつながしわ酒を盛るための柏の葉。

水取司もいとりのつかさ飲み水などを担当する者。

 

大后おおきさきは、夫仁徳にんとく天皇の浮気(一夫多妻制なんで問題ないが)の噂を聞くと、宴会で使うはずの御綱柏みつながしわを投げ捨てて、山代川を上って行きます。

和歌(51)に「我家のあたり」とあるように、要は、実家のある故郷に帰ったということ。

この辺の感覚は、今も昔も変わらないようです。

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