石之日売命
その後、大后である石之日売命が、
豊楽を催そうとして、御綱柏を採りに木国(紀伊国)にお出掛けになったとき、
仁徳天皇は、
八田若郎女と結婚いたしました。
大后が
御綱柏を御船にたくさん積んでお帰りになるとき、
水取司として仕えていた吉備国の児島の人夫が、難波之大渡に遅れて着いた倉人女の船と出くわし、
「天皇は、この頃、八田若郎女と結婚して、昼夜遊んでいらっしゃる。大后がこの事をお聞きになったら、大変なことになるので、靜かに遊んでいらっしゃる」
と語りました。
すると、その倉人女は、このことを聞くとすぐに御船に追いつき、その人夫が言ったことを詳細に大后に伝えました。
それを聞いた大后は、大いに恨み、怒って、御船に載せていた御綱柏をことごとく海に投げ捨てました。
そこでその土地を御津前(大阪市中央区)と言うのです。
そして宮には入らず、御船で避けるようにして堀江を遡って川に沿って山代(京都府南部)の方に上り進みました。
このとき、大后は、次の歌をお詠みになりました。
和歌(50)
つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の辺に 生ひ立てる さしぶを さしぶの木 其が下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも
(山代川を遡り、わたしが上って行くと川辺にさしぶの木が生えている。そのさしぶの木の下に生えている葉の広い真椿。その花のように照り輝き、その葉のようにゆったりと心を広げているのは大君のようです)
そして、山代から回って、那良の山の入り口(奈良山の麓)に着くと、次の歌をお詠みになりました。
和歌(51)
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 那良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城 高宮 我家のあたり
(山代川を上って奈良を過ぎて、大和を過ぎて、わたしが見たいと思っていた国は葛城の高宮の我が家の辺りです)
大后は、歌を詠み終わると、筒木(京都府京田辺市)に住む
韓人の
奴理能美の家に滞在しました。