水歯別命と曾婆加理
水歯別命は、
曾婆加理を率いて大和に上り進んだときに、大坂山に到着して思いました。
「曾婆加理は、わたしのために大きな功績を立てたが、自分の主君を殺したのは、忠義に反する。しかし、その功績に報いないのは、信義に反している。しかし、その信義に従えば、いずれ主君の命を狙うかもしれない。それならば、その功績には報いるが、その体は、滅ぼしてしまおう」
そして、水歯別命は、曾婆加理に、
「今日はここに留まって、まず大臣の位を授け、明日、大和へと上り進もう」
と仰せになり
その山の麓に留まり、仮宮を造り、すぐに豊楽(酒宴)を催しました。
そこでその隼人(曾婆加理)に大臣の位を授け、百官(多くの官僚・役人)に拝礼させました。
隼人は、歓喜し、志を遂げたと思いました。
水歯別命は、その
隼人に、
「今日、大臣と同じ盃で酒を飲もう」
と仰せになり、
共に飲んだときに顔が隠れるほどの大きな椀に勧める酒を盛りました。
まず王子(水歯別命)が先にのみ、隼人が、後で飲みました。
その隼人が飲んだとき、大きな椀が顔を覆いました。
そこで、水歯別命は、敷物の下に置いていた剣を取り出して、隼人の首を切って殺しました。
そして、翌日に大和に上り、そこでその土地を近飛鳥(大阪府羽曳野市飛鳥)といいます。
水歯別命は、大和に上って到着すると、
「今日はここに留まって、祓禊をして、明日になって参上して神宮を拝もう」
と仰せになりました。
そこでその土地を遠飛鳥(奈良県明日香村)といいます。
そして、石上神宮に参上して、天皇に、
「政は、既に遂行しましたので、ご報告に上がりました」
と申し上げました。
履中天皇は、
水歯別命を御殿に呼び寄せて話し合いました。
履中天皇は、
阿知直を初めて
蔵官に任命して、
粮地(耕作地)を与えました。
この御世に若桜部臣たちに若桜部の名を与え、比売陀君たちに姓を与えました。
また、履中天皇は、伊波礼部を定めました。
履中天皇の御寿命は、64歳です。
壬申の年の正月三日に崩御しました。
御陵は、毛受(大阪府堺市石津ヶ丘)にあります。