古事記を読む(231)下つ巻-第19代・允恭天皇
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日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。
古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」
氏姓の選正
允恭天皇は、
天津日嗣(皇位)を継承しようとしたとき、ご遠慮になり、
「わたしは、長いこと患っているある病気があり、皇位を継承することはできない」
と仰せになりました。
しかし、大后をはじめ、臣下たちが強く願い出たため、皇位を継承し、天下を統治なさいました。
皇位を継承したときに新良(朝鮮半島の新羅)の国主が、81隻の船で貢物を献上しました。
その貢物の大使の名は、金波鎭漢紀武といいます。
この人物は薬の処方をよく知っていたため、帝皇の病気を治療しました。
允恭天皇は、
天下のあらゆる人たちの氏姓が誤っていることを憂えて、味白檮(奈良県明日香村の甘橿丘)の言八十禍津日の前で、
玖訶瓰(盟神探湯のための釜)を置いて、天下のたくさんの友緒の氏姓をお定めになりました。
また、
木梨軽太子の
御名代として
軽部を定め、
大后の
御名代として
刑部を定め、
大后の妹の
田井中比売の
御名代として
河部を定めました。
允恭天皇の御寿命は、78歳です。
甲午年の正月15日に崩御なさいました。
御陵は、河内国の恵賀長枝(大阪府藤井寺市)にあります。
氏姓:「氏」は、出身の家の名を表すもの、「姓」は、朝廷から賜ったその家の名の位。
玖訶瓰(盟神探湯のための釜):玖訶瓰という釜にお湯を沸かして、そこに手を入れて火傷するかしないかで、その人物の邪心を判断する。こうした占いを盟神探湯という。
要は、氏姓を定める際に、自分の出自を欺く者がいるので、嘘をついているかいないかを盟神探湯で判断したということ。
社会を管理する上で、この氏姓をきっちりと定めることが重要視されました。
そして、允恭天皇が、早くも崩御なさいましたが、允恭天皇の条は、まだしばらく続き、次の第20代・安康天皇へと皇位が引き継がれて行く経緯について語られます。
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