伊勢物語-第八十三段 小野

 
伊勢物語







この記事を書いている人 - WRITER -
フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」

(原文)

むかし、水無瀬に通ひたまひし惟喬これたか親王みこ、例の狩しにおはします供に、馬の頭なるおきな仕うまつれり。

 

日ごろ経て、宮にかへりたまうけり。

 

御おくりしてとくいなむと思ふに、大御酒たまひ、禄たまはむとて、つかはさざりけり。

この馬の頭、心もとながりて、

和歌(151)

枕とて草ひきむすぶこともせじ秋の夜とだにたのまれなくに

 

とよみける。

 

時は三月やよひのつごもりなりけり。

 

親王みこおほとのごもらで明かしたまうてけり。

 

かくしつつ仕うまつりけるを、思ひのほかに、御ぐしおろしたまうてけり。

 

正月むつきにおがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。

 

しひて御室みむろにまうでておがみたてまつるに、つれづれといともの悲しくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひいで聞えけり。

 

さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、

和歌(152)

忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは

 

とてなむ泣く泣く来にける。

 

(現代訳)

昔、水無瀬の離宮に通われた惟喬これたか親王みこが、いつものように鷹狩をしにおいでになるお供に、馬のかみである老人が奉仕した。

 

何日かお過ごしになり、親王みこは、都の御殿に戻られた。

 

馬のかみは、御殿までお見送りした後、自分の邸に戻ろうと思っていたところ、御酒をふるまわれ、褒美をくださるということで、帰ることができなかった。

 

馬のかみは、帰宅ができるのか心配になり、

和歌(151)

旅先で仮寝のための草枕を結ぶつもりはありません。今は春であり、長い秋の夜を頼みにしてゆっくり休むこともできないのですから。

 

と詠んだ。

 

時は三月の末であった。

 

親王みこは、寝所にお入りになることなく、夜をお明かしになった。

 

このようにしつつお仕え申し上げていたのだが、思いもかけず、親王みこは、ご出家なされたのであった。

 

正月に親王みこを拝礼申し上げようと小野に参上したところ、小野は比叡山のふもとで、雪が大層積もっている。

 

強いて親王みこの居室に参上して拝礼申し上げたところ、何となく心悲しくしているご様子でいらっしゃったので、長い間ご一緒して、昔のことなどを思い出してお話申し上げた。

 

そのようにして、お側にお仕えしていたいなとせつに思うが、宮中の行事などがたくさんあり、そのまま小野でお仕えすることができないので、夕暮に帰る際に、

和歌(152)

現実をふっと忘れ、今のことを夢かと思います。山里の深い雪を踏み分けて貴方を訪ねる日が来ようとは、まったく思いもよりませんでした。

 

と詠んで泣きながら都に帰ってきたのであった。

  • 惟喬これたか親王みこ

母は、紀名虎きのなとらの娘・静子。

父である文徳天皇の寵愛を受けたが、

藤原良房ふじわらのよしふさの娘が母である惟仁親王これひとしんのうが皇太子に立ち、清和天皇として即位し、皇位継承の望みは、完全に途絶えた。

 

 

話は、前段の続き。

馬のかみである老人(業平)と惟喬これたか親王との親密なやりとり。

惟喬これたか親王を送り届けた後に、帰ろうとすると「まぁ、もう少しいて、一杯いいじゃないか」という感じでしょうか。

 

こうしたやりとりの後に、雪深い小野への惟喬これたか親王の出家が語られ、この対比がもの悲しさを協調します。

 

皇位継承の望みが断たれたのが、惟喬これたか親王が26歳のとき…

そして、この出家が29歳のとき。

 

業平は、もう少しご一緒したい気持ちがこみ上げるも、都での仕事も残されており、「こんな日が来ることになろうとは」と嘆き、涙を流しながら都へと帰りました。

この記事を書いている人 - WRITER -
フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」




Copyright© 深夜営業ジャパノロジ堂 , 2021 All Rights Reserved.