伊勢物語-第八十四段 さらぬ別れ
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フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。
日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。
古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」
(原文)
むかし、男ありけり。
身はいやしながら、母なむ宮なりける。
その母長岡といふ所にすみ給ひけり。
子は京に宮仕へしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。
ひとつ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。
さるに、十二月ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば歌あり。
和歌(153)
老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな
かの子、いたううち泣きてよめる。
和歌(154)
世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため
(現代訳)
昔、男がいた。
身分は低かったが、母は皇族であった。
その母は、長岡という所に住んでおられた。
子は、都で宮仕えしていたので、母のもとへ伺おうとするが、忙しくてなかなかできなかった。
男は、その母にとっては一人っ子であり、母は、大層可愛がりになった。
ところが、十二月頃、急ぎということで母のもとから手紙が届いた。
驚いて開けてみると歌がしたためてあった。
和歌(153)
年をとってしまうと、避けられない別れがあるというので、ますます一層、あなたに会いたく思います。
息子は大層泣いて詠んだ。
和歌(154)
この世に避けられない別れなど、無ければいいのに。母の命が千年もの間続いてほしいと祈る、親の愛し子のために。
業平の母は、桓武天皇の皇女である伊都内親王。
業平自身は、臣籍降下して、「在原」氏を名乗っている。
長岡京。784年~794まで平城京から平安京に移る間、都が置かれた。
業平の父・阿保親王には、業平以外に行平などの子が数人いたが、伊都内親王が産んだ子は、業平のみということ。
この段は、話としては、大したことのない内容ですが、この感覚は、時代に関係なく、現代にも通ずるものでしょう。
業平の母である伊都内親王の薨去は、貞観3年(871年)で、業平37歳のとき、
前段の惟喬親王の出家が、貞観4年(872年)ですから、業平にとっては、辛くて悲しい出来事が連続して起こっています。
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