古事記を読む(1)-序文

 







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フリーの翻訳者・ライター、編集、校正。 日本の伝統文化である和歌、短歌、古典、古事記、日本文化、少しのプライベート。 古事記の教育現場復帰「未来を担う子ども達に自分たちのアイデンティティである日本神話を」

序文

臣下の安万侶やすまろが申し上げます。

およそ、万物の始まりは混沌としていて、はっきりとせず、名や働きも無い世界を成す根元が固まっても、名づけようもない状態でした。

ところが、天地あめつちが初めて分かれると、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ高御産巣日神たかみむすびのかみ神産巣日神かみむすびのかみの3柱の神々が成り万物の始まりとなりました。

 

次に陰と陽が別れると、

伊邪那岐神いざなきのかみ伊邪那美神いざなみのかみの2柱が成り万物を生みだす祖神となりました。

 

伊邪那岐神いざなきのかみが、黄泉国よみのくにへ行き帰りし、そのけがれを落とそうと、みそぎをして、目をお洗いになると、

日の神である天照大御神あまてらすおおみかみ

次に、月の神である月読命つくよみのみことが現れました。

 

次に、海水に浮き沈みしてみそぎを行うと多くの神が現れました。

 

このように世界の始まりは、遙か遠いことで確かではないが、語り伝えにより2柱の神々の国生み、島生み、神生みなどを知ることができます。

天照大御神あまてらすおおみかみが天の石戸にお隠れになったとき、

鏡をさかきに掛け、須佐之男命すさのおのみことが、口中の玉を砕いて得られた正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことに始まり、その後代々皇統が継承することになり、

また天照大御神あまてらすおおみかみが、剣を砕いて、須佐之男命すさのおのみことが地上に降り立ち、八岐大蛇やまたのおろちを斬り、多くの神々が栄えました。

 

そして、安の河で神々が相談して、建御雷神たけみかづちのかみが小浜で国譲りをうけて国土を平定しました。

 

番能邇邇芸命ほのににぎのみことが初めて、高千穂に降臨し、神武じんむ天皇が久しくして、大和にお着きになりました。

その途中、熊に姿を変えた神に、天つ神が降ろした霊剣を高倉に得ました。

 

また、ある時は尾がある人が遮ると、大きな八咫烏やたがらすが吉野の地に皇軍を導きました。

舞を舞いつらなり、歌を合図に賊を討ち払い、一族を従わせました。

 

そして、祟神すじん天皇は、神託を夢で知り神祇じんぎをお敬いなられたので賢君と称えられました。

仁徳にんとく天皇は、民家の煮炊きの煙をご覧になり、人民を慈しんだ聖帝ひじりのみかどと伝えられています。

成務せいむ天皇は、国の境をお定めになり、国造くにのみやつこ県主あがらぬしらをお定めになり、近江宮で天下を統治なさいました。

 

允恭いんぎょう天皇は、氏姓を制定して、飛鳥宮で天下を統治なさいました。

歴代天皇の政治にはそれぞれに違いがあり、華やかなものから質素なものもありますが、古きものを顧み、すでに衰えた道徳を正し、現在に照らして規範を参考にすることができます。

飛鳥清原大宮あすかきよはらのおおみやで大八洲を統治なさった天武天皇の御代に至ります。

この皇子は、天に昇る前の水中に潜む竜の徳をお持ちであり、天子となるべきときに夢の中で神託をお聞きになり、皇位を継ぐお告げと判断し、夜の河で皇位の継承を確信しました。

 

しかし、まだ皇位を継ぐ時期ではないと考え、蝉の脱皮のように出家なさり、吉野山に籠ります。

そして、心を寄せる人が集まり、天運と人々の心が共に集まると東国へと山を越え川を越え、雷電のような勢いで進軍しました。

 

矛が威力を示し、勇猛な兵士の歩く土ぼこりが舞いあがると、軍旗が兵士を輝き、近江の軍は瓦解し、瓦礫のように崩れ去り、短い間に妖気は、鎮まりました。

 

そこで、すぐに牛や馬に休息をとらせて、皇子は心安らかに大和にお帰りになりました。

そして、酉の年、清原大宮きよはらのおおみやで即位なされました。

 

天武天皇の政道は、古代中国の黄帝こうていにも勝り、徳は周王にも勝り、三種の神器を受け継いで天下四方を統治なさりました。

政治では、陰陽と五行(木水日土金土)の正しい運行に則り行われ、神を崇敬して良俗を奨励し、優れた教えを国中にお広めになりました。

天武天皇のその英知は深く、その心は鏡のように明るく、過去の時代のことも見通されました。

 

天武天皇は、次のように仰せになりました。

「聞くところによると、多くの氏族に伝わる帝紀と本辞は、事実とは違っていたり、嘘が混じっている。今このときにその誤りを改めなければ、幾年も経たずその趣旨は失われてしまう。
帝紀と旧辞は、国家組織の原理であり、帝紀と旧辞と調べ直し、正しい歴史を編纂して後世に伝えようと思う」

ときに、性は、稗田ひえだ、名は、阿礼あれという28歳の舎人とねりがいました。

 

生まれながらに聡明で、一目見ただけでその文章を暗唱し、一度聞くと記憶することができた。

そこで天皇は、阿礼あれ帝皇日継すめらぎのひつぎ先代さきつよとをみ習わせましたが、天皇の御代も変わり、歴史書編纂は実行されずじまいでした。

伏して思うに、元明げんめい天皇は、天子の徳を得てその聖徳は、あまねく及び、国民も国土も育まれています。

皇居にいらっしゃっても、馬のひづめの至る果てまで覆い、また船の舳先へさきの及ぶ海の果てまで照らしになります。

その徳は、日の出の光が月と重なりあい、慶雲けいうんが空に現れ、2本の枝が1本となり、穂がつながった2本の稲などおめでたいしるしに史官は筆を休めることができませんでした。

また、外国からの使節を迎えるために次々と烽火のろしを上げ、いくつもの言葉の通訳を重ね、多くの貢物がきて、宮廷の倉に山積みになり、空になることがありません。

元明げんめい天皇の名は、兎王うおうよりも高く、徳は、いん湯王とうおうにも勝っているほどです。

 

元明げんめい天皇は、旧辞と帝紀が誤り嘘が混じっていることを悲しみ、

これを正そうと考え、和銅4年9月18日に臣下の安万呂やすまろに、稗田阿礼ひえだのあれが勅命によって記憶している旧辞を書いて書物にするように命じました。

 

謹んで仰せのままに詳細に採録しました。

 

しかしながら、上古の時代は、言葉とまたその意味も素直であり、漢字を用いて文章を書き表すことは困難でした。

全て漢字の訓を用いて書くと思い通りに表現することができず、音を用いて書くと文章がいたずらに長くなってしまいます。

このような次第で、あるときには一句の中にも訓と音を用い、あるときには全て訓を用いて書きました。

意味や言葉の分かりにくいものには、注を付けて明らかにし、意味や言葉が分かり易いものには、注をつけていません。

人名の「日下」を「くさか」と読み、「帯」を「たらし」と読んだりする類のものは改めていません。

 

およそ記している内容は、天地開闢てんちかいびゃくから小治田の御代(推古天皇)です。

そして、、天之御中主神あめのみなかぬしのかみから日子波限建鵜葺草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことまでを上つ巻とし、

神倭伊波礼毘古天皇かむやまといわれびこのすめらみこと(神武天皇)から品陀ほむだの御代(応神天皇)までを中つ巻とし、

大雀皇帝おおさざきのすめらみこと(仁徳天皇)から小治田大宮(推古天皇)までを下つ巻とし、合わせて3巻に記し、謹んで献上いたします。

 

臣下の安万侶やすまろ、誠に恐れかしこまり、頓々首々(額を地につけ)申し上げます。

 

和銅5年正月28日

正五位上勲五等 太朝臣安万侶

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